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はじめに
マルクスという名前やその著書『資本論』について聞いたことがあるけれど、何をした人かは詳しく知らない人も多いのでは? 世界史の教科書にも出てくるマルクスは、こんな偉人です。
亡命者として生きたマルクス
学問には平坦な大道はありません。そして学問の険しい坂道をよじのぼる労苦をいとわないものだけに、その明るい頂上にたどりつく見込みがあるのです。
(引用元:――カール・マルクス(経済学者)『資本論』より)
※Wikimedia Commons(パブリック・ドメイン)
1875年に撮影されたマルクスの肖像
1875年に撮影されたマルクスの肖像
カール・マルクスは20世紀以降の社会運動、国際政治に最も大きな影響を与えたドイツの思想家です。
研究分野は哲学、政治学、経済学ほか、多岐にわたります。
彼が提唱した科学的社会主義は「マルクス主義」とも呼ばれ、ロシア、中国、キューバなど世界各地の社会主義、共産主義国家樹立の思想的支柱として扱われています。
生前のマルクスは、決して恵まれた境遇だったとは言えませんが、その死後、彼の学問は世界を変えました。
大学で学び、研究の道に進むことが目的の人にとっては、不遇の中で新たな学問の道を切り開いたマルクスの生涯は一つの指標となるはずです。
それでは、そんな偉業を成し遂げたマルクスの生涯を見ていきましょう。
マルクスは若いころ、法学を研究していましたが、後に哲学に没頭するようになります。
大学教授を志したものの、その道が閉ざされると、定職に就くことはなく、新聞や雑誌の編集発行、論文の寄稿などの収入をわずかに得るばかりの貧しい生活を送っていました。
そんな中、マルクスがパリで発行に関わった論文雑誌が、出身地であるプロイセン(現在のドイツ)政府から危険視され、彼はプロイセンに戻ることができなくなってしまい、亡くなるまで「亡命者」として各地を転々とすることになったのです。
パリで経済学の研究を始めて以降、マルクスはブリュッセル、マンチェスターに亡命先を移し、ロンドンでは大英図書館に通い詰めて研究を続けました。
この頃の研究成果は、各地の地名が冠せられた「ノート」としてまとめられています。
※Wikimedia Commons(パブリック・ドメイン)
マルクスの死後『資本論』の編集を引き継いだエンゲルス。マルクスにとって、生涯を通じて最も親しいパートナーだった。
マルクスの死後『資本論』の編集を引き継いだエンゲルス。マルクスにとって、生涯を通じて最も親しいパートナーだった。
世界を変えた名著『資本論』とは?
今回の名言は、1867年に第1部が刊行されたマルクスの代表作であり、長年の研究の集大成である『資本論』の「フランス語版序文および後記」に記載された一節です。
マルクスはその後も『資本論 第1部』の改訂を重ねましたが、第2部と第3部は未編集のままでした。
1883年、マルクスがこの世を去ると、友人で、共同研究者でもあったフリードリヒ・エンゲルスが『資本論』の第2部と第3部の編集に尽力し、刊行されました。
マルクスが残した冒頭の言葉通り、彼にとっての学問は決して平坦な道ではなく、住まいを追われ、故郷に戻れず、貧しさの中にありました。
しかし、その学問に裏付けられた彼の思想は、エンゲルスの弔辞によれば、「シベリアの鉱山からカリフォルニアの海岸まで全欧米に」広がり、「数世紀を通じて生き続ける」ことができたのです。
自らの安泰な生活を捨ててまで、学問の道を究めたマルクス。多くの労苦をいとわずに偉業を成し遂げたその姿は、自らの限界と戦う受験生たちにも勇気を与えてくれます。
プロフィール●カール・マルクス
1818年-1883年(64歳没)。
プロイセン王国出身の哲学者、経済学者、思想家、革命家。フリードリヒ・エンゲルスと協力し『共産党宣言』、『資本論』などを著す。その業績はマルクス主義、マルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の全世界に影響を与えた。