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はじめに
歴史上の武将として人気と知名度が高く、漫画やアニメ、ゲームや小説、映画などで取り上げられることも多い織田信長。彼が本能寺の変で死亡したことはよく知られていますが、「その後」の話はご存じでしょうか?
信長の遺体はどこへ? 遺体にまつわる諸説
1582年、京都の本能寺に滞在していた織田信長を家臣である明智光秀が襲いました。
謀反を起こされたことを知った信長は自らの刃で割腹して自殺。
信長は天下統一を目前にしてその野望を絶たれます。これが本能寺の変です。
本能寺の変は歴史上の重要な出来事ですが、光秀の謀反の動機がはっきりしていないことなど、いくつもの謎をはらんでいることでも有名です。
信長の遺体の行方に関してもさまざまな説があります。(信長の配下の忍者が火薬で遺体を粉々に爆発させた説、じつは生き延びている説という説も!)
信長の遺体は光秀も見つけられず、信長の菩提寺である京都市の総見院にも遺体はありません。
一方、京都市の阿弥陀寺には信長の墓があり、本能寺から持ち出した遺骨が葬られたといわれています。
また、静岡県富士宮市の西山本門寺に信長の首が埋められたとされていて、いまも信長の首塚があります。
いずれにせよ、信長の遺体がどこに行ってしまったのかは定かではありません。
今後も研究者や歴史ファンを悩ませ続けることは間違いないのですが、このミステリアスな部分も含めて信長の魅力であるといえます。
安土城は焼失後、ただちに廃城になっていない
信長が築いた安土城は豪華絢爛な装飾で知られていますが、短命で終わりを告げた切ない城でもありました。
1576年から3年かけて築かれましたが、本能寺の変のあと、間もなくして放火により焼失。
現在残っているのは石垣のみです。
けれども、当時焼け落ちたのは本丸のみであり、二の丸などは残っていました。
そのため、すぐ廃城になったわけではありません。
安土城は本能寺の変のあとも織田家の居城として使われましたし、清州会議によって織田家の家督を引き継ぐことが決まった三法師(のちの織田秀信)も安土城に入城。
本丸以外は城としての機能を失ってはいませんでした。
ですが、1585年に豊臣秀吉の甥の羽柴秀次(豊臣秀次)が安土城の隣地に八幡山城を築くと、安土城は建物や城下町が八幡山城に移され、城としての役目を終えました。
「安土城は信長の死後、何者かに放火されて廃城になった」というイメージは間違いなのです。
信長が連れていた黒人の家臣・弥助はどうなった?
信長に黒人の家臣がいたことは広く知られています。
日本を訪れたイエズス会のヴァリニャーノはアフリカの黒人の召使いを連れていました。
関心を持った信長はその黒人を譲り受けます。
信長は黒人に弥助という名前と武士としての身分を与え、戦にも同行させました。
本能寺の変の際にも弥助は信長のすぐそばに仕え、信長の自害後も光秀の軍勢と戦っています。
結局、弥助は光秀軍に捕らえられますが、「黒奴(弥助のこと)は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」と判断されました。
「黒奴は動物」とは現代の価値観では差別的な考えですが、そのおかげで弥助は一命をとりとめてイエズス会に戻されたと見られています。
その後の弥助の足取りはわかっていません。
1584年に九州の戦国大名たちが争った沖田畷(読み:おきたなわて)の戦いに黒人が参加したと宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に書かれているため、これが弥助ではないかと考えている歴史ファンもいますが、いずれにせよ弥助のその後は不明です。
弥助の物語はハリウッドで映画化されることが決まっています。
映画が公開された際には、ここで取り上げた信長の「その後」がどう描かれるかにも注目しましょう。