モチベーションが上がる名言【第四回】〜武者小路実篤の言葉〜

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はじめに

小説家、画家などとして明治から昭和にかけて活躍した武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)は、理想郷実現のための社会実験である「新しき村」建設を主導した思想家としても知られています。

人生とは、常に「もう一歩」と思い続けること

いかなる時にも自分は思う もう一歩 今が一番大事な時だ もう一歩

(引用元:――武者小路実篤(作家))

『武者小路実篤詩集』より武者小路実篤の肖像(国立国会図書館蔵)

今回紹介する名言は、武者小路実篤が残した「書」に記された一節です。
実篤が書画の制作を本格的に始めるようになったのは大正時代末期、40歳の頃からで、90歳で亡くなる50年の間に、このような人生観をあらわす名句や、野菜や花の絵に短い言葉を添えた「讃」と呼ばれる作品を数多く残しました。
実篤が残した今回の名言ですが、冒頭に「いかなる時も」とありますから、“ピンチ”の時ばかりでなく、常に現状に満足することなく「もう一歩」を踏み出そうとする姿勢が読み取れます。
またそれに続く「今が一番大事な時だ」は、その「もう一歩」を踏み出す行為は、決して先送りすることなく、まさに「今」行うべきだということでしょう。

実篤は、「この道より 我の生きる道なし この道を歩く」という有名な名言も残しています。
明治、大正、昭和という激動の時代を生き、昭和51年(1976)に亡くなるまで、実篤は「歩く」こと、すなわち作家、人道主義者として前進し続けることを止めませんでした。

今、受験勉強に取り組む皆さんにとって、志望校への合格はひとつのゴールになるのかもしれません。
しかし、新しい知識を得ることや、何かを作ること、生み出すことは、その後の人生においてもずっと続いていきます。
常に問題意識を持ち、自分の道を進み続けた実篤のように、私たちもこれまでの勉強や経験を土台にさらに歩み続け姿勢を忘れないでいたいものです。
そうすることで教養や人間性を深め、それを自分の魅力としてこそ、人生はもっと豊かになることでしょう。

今も宮崎県木城町に残る「日向新しき村」。実篤はこの地で6年間、自らも農業に従事しながら文筆活動を行った。

上流階級の立場から、不平等に反発した「白樺派」

実篤は「白樺派」の代表的な作家の一人として知られています。
「白樺派」という名前は、明治43年(1910)に創刊された文学雑誌『白樺』に由来しています。
実篤は華族の子息が多く通っていた学習院に、初等科から高等科まで通いました。
そこで出会ったのが、同じく白樺派の作家で、「小説の神様」とも称される志賀直哉です。
実篤も志賀も東京帝国大学(現在の東京大学)に進学しましたが、どちらも学業に熱心ではなかったようで、実篤は1年足らずで中退してしまいます。

『白樺』には、志賀直哉の他にも有島武郎(たけお)、里見惇(とん)、柳宋悦(やなぎむねよし)といった、学習院出身のメンバーが加わりました。
『白樺』の同人に共通しているのは、出身家庭が裕福だということです。
いわゆる「旧制」の学習院は宮内庁の管轄下にあり、華族や政治家、軍人、企業家といった上流階級の子弟しか入学できませんでした。
白樺派の人々は、上流階級の恵まれた環境にあったにもかかわらず、社会の不合理や不平等に正義感から反発しました。
その結果、学習院内では『白樺』が禁書にされてしまったほどです。

実篤の正義感と使命感はその後も衰えず、大正7年(1918)には「新しき村」の建設という実践的な社会運動を始めます。
最初は宮崎県に土地を購入し、15人の村民によって開村しましたが、のちに村周辺がダム建設予定地となったため縮小を余儀なくされたことから、昭和14年(1939)に埼玉県毛呂山町にも新たな村を建設。
現在も実篤が提唱した「平等」「個人の尊重」「過重労働の廃止」「共同協力」といった理想郷の「精神」に基づいて、村の運営は続いています。

色と大きさが違う2つのカボチャの絵に、「君は君 我は我也(なり) されど仲よき」という言葉を添えた実篤の有名な作品があります。
実篤は確かに、受験や出世などの競争にあくせくする必要のない特権階級の出身でした。
しかし、「新しい村」という農業を中心とした共同体を建設し、野菜や花の絵を多く残したのは、自然の前では自分もただの人間であり、世界中の誰もがそうだ、と考えたからでしょう。

皆さんも、もし勉強に疲れたり、プレッシャーに負けそうになった時には、いい学校、いい会社といった競争の呪縛に過度にとらわれて一生懸命走り続けるばかりでなく、「もう一歩、もう一歩」と、ゆっくりとでも確実に歩き続けることを意識してみてはいかがでしょうか。


プロフィール●武者小路実篤
明治18年(1885)生まれ。生家は江戸期から続く公家で、明治期からは子爵家。25歳の時、志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊。理想主義、人道主義を掲げた白樺派の作家として小説、戯曲、詩などを発表。書画作品も多く残した。また実践的な社会運動として「新しき村」を建設。運動は今も有志に引き継がれている。昭和51年(1976)に90歳で没。

この記事を書いた人
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