この記事は最終更新日から1年以上が経過しています。内容が古くなっているのでご注意ください。
はじめに
昭和59年(1984)から現在まで、1万円紙幣の肖像に採用されている福沢諭吉は、幕末から明治期に活躍した人物です。慶應義塾大学の創設者でもあります。
前進あるのみ。現状維持は「後退」である。
進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む
(引用元:――福沢諭吉(著述家、思想家、教育者)『学問のすすめ』より)
今回紹介する名言は、福沢の代表作「学問のすすめ」の「五編」に書かれています。
この編は明治7年(1874)に書かれたもので、福沢は「わが国独立の年号」だとしています。
この前年、征韓論をめぐって西郷隆盛が参議を辞任。板垣退助、江藤新平、後藤象二郎らも同様に下野し、国会開設を求める建白書(民撰議員設立建白書)を提出、福沢もそれを強く支持していました。
自由民権運動へとつながるこの動きに、福沢は「わが国独立」を感じとっていたのかもしれません。
福沢は本書の中で、明治政府が進める軍隊や学校の制度、鉄道や電信の整備などには一定の評価をしています。
しかし、それらが政府の「私有」になっていて、「人民」はまるでお客さんのようだと、強い不満を表します。
これでは文明の「形」だけがあり、「精神」がない状況で、必ず西洋諸国に遅れを取ってしまうというのです。
今回の名言は、まさにその危機にあって、「文明の精神たる人民の気力」を退歩から進歩に転換するよう呼びかけたものです。
名言はさらにこう続きます。
進まず退かずして瀦滞する者はあるべからざるの理なり
前に進まず、後に下がらず、現状に留まろうとすることはできない。
それは必ず「後退」につながるということです。
受験勉強でも、学校や塾で与えられた問題集を解き終えると、それで安心してしまうことはないでしょうか。
明治維新直後の日本人も、急激な文明開化に疲れ、立ち止まりたい状況にあったのかもしれません。
しかし、志望校合格という結果が出るまでは、その目標に向かって、前進することをやめてはいけません。
なぜなら、みんなが歩き続けているとき、あなただけが立ち止まったら、周囲からはあなたが「後退」しているように見えるからです。
福沢の名言はそう教えています。
「学問のすすめ」を読めば、モチベーションアップ間違いなし
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり――この有名な冒頭の一節で始まる「学問のすすめ」は、明治5年(1872)から4年ほどをかけて、17編が発表されました。数百年続いた封建社会が、明治政府樹立によって改められたばかりの日本では、まさにそれまでの生活や思想が根本から見直されるべき時期にありました。
福沢はこの書を通じて、自由、権利、平等、国家の独立と国民意識、法治主義など、当時の庶民がまったく知らなかったとも言える概念を平易な文章で広めようとしたのです。
また福沢は、本書のタイトルのとおり、これからの時代は学問が重要であることを、人々に強く勧めました。冒頭の一節の後には、こうあります。
されども今、広くこの人間世界を見渡すに、(中略)貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや
実際の世間にある身分の格差について、福沢は次のように結論します。
ただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず
明治以前の日本では、生まれつきの社会的、経済的な環境を乗り越えて立身出世をすることは、不可能ではありませんでしたが、ほとんどありえないことでした。
福沢自身も下級武士の次男で、父親は儒学に優れていましたが、身分が低いために名を上げられませんでした。
福沢は後に自伝の中で、
封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ
(引用元:「福翁自伝」)
と亡き父の生涯を悔しがっています。
「学問のすすめ」は、受験生の皆さんにもわかりやすい文体で書かれています。
また勉強の大切さも説いていて、著作全体がモチベーションアップに役立つことでしょう。ぜひ一度読むことをおすすめします。
プロフィール●福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)
天保5年(1835)中津藩(大分県)の下級武士として生まれる。青年期に蘭学を修め、その後渡米。幕臣時代には渡欧も経験し、通訳を務める。帰国後は慶應義塾を設立。教育に力を注いだ。幕末から明治初期にかけ「西洋事情」、「学問のすすめ」、「文明論之概略」など多くの政治論、啓蒙書などを著している。明治34年(1901)66歳没。